いつものこと

新一年生の保護者同士何となく集まり、何となく会話になり、何となく「一緒に遊ばせましょうね。」という話になる。どこに住んでいるという話になり、こういうとき、決まって私以外が盛り上がりで、私以外がその場で不安を解消でき、私は結局取り残され、最後まで乗り遅れる。

 

慣れっこだなあ。あるあるだなあと思いながら、なぜかほっとするような、あまり寂しくもない気分で歩いていた。

 

「同じ一年生さんだよ。」

と娘に集団のお母さんたちの子供を紹介すると、我が子はぴょんとその子の隣に行く。相手の子はちょっと固まる。娘が開口一番その子に話しかけるのは、名前でも、クラス名でもなく

「ねえ知ってる?タンポポって食べられるんだよ。(最近野草がお気に入り)」

相手の子はちょっと固まる。しかしほどなくして、お母さんに

「…たんぽぽ、○○公園に沢山さいていたよ。」

など、話題をそれとなく引き継いでいる。その頃には娘の興味は違う方へ。

 

あるあるだなあと思い、なぜかもう動じない自分がいる。

 

当初この微妙~~~に掛け違う感じは何だ?と思っていた。アスペルガーを疑ったが、物を買い与えても何しても、粘土のように母親にまとわりつき、旦那と会話して少しでも自分を見ないとおかんむりだったので、自閉圏の子供の幼少期の特徴のうち、よく聞く項目は当てはまりにくいなあと思い続けて来ている。今でも大体私の上に寝そべっている。

 

ADHDは大いにあり得る。旦那がその特性で苦労している。我が子は幼少期はとにかく好奇心が強く、アホほど体力があり、しかも寝ないので、これはもらったかな~と思っていた。

 

1歳半健診では親から離れて大興奮で待合いの部屋を走り回り、知らないお母さんのボールペンを持ってきたり、隣の部屋にさっと入って、検査用の積み木を持ってきてしまった事も…。その節は、ご迷惑をおかけしました…。

 

しかし年齢が上がるにつれ、最近では旦那の方が顕著である。娘はトイレの電気も消すし、風呂場も片付ける。先生に提出すべきものは今のところきちんと忘れずに出せているし、家を出る前に「持って帰ってね。」といった事は、数時間ののち、ちゃんと覚えていて、学校から持ち帰っている。

 

特別すごいというレベルではないけれど、ただ少しだけ、周囲の1年生よりも何かが知的に発達しているのかもなあ?と思ったら、この光景も何かすんなり受け止められるようになった。

 

1つ前の日記で、『ナルニア国物語』を見つけて教えてくれ、一緒に教室で読んだ親友は、思い返してみれば小学校時代、唯一自分の興味を比較的深くシェアできる友人だった。彼女が「チャップリンみたい。」と同世代の子を見て言ったとき、私は初めてチャップリンを知る子を知り、初めて家の中でシェアされている文化をそのまま学校で共有できるのかと、すごく嬉しくなったのを覚えている。

 

そして自慢するつもりでは全くなく、そこにチャップリンを解する子は他の子で一人もいなかったし、さらに私が前日に母と一緒に見た映画『カラー・パープル』を語れる子は相変わらず皆無だった。

 

つまりは、そうなのだ。一人もいないだけなのだ。でもそれすら、小さな世界の事なのだ。

 

先日中島芭旺くんの事を知り、触りだけだが、その発言を見た。彼の本は賛否両論あるらしいのだけれど、娘と(というか自分と?)被るところもある。自学自習がなぜか組み込まれている所とか。学校でせっかく興味が出ても、それが時間で区切られ、強制的に違う勉強をしなきゃいけないのが苦痛、というところや(本当これストレスだった)。共感して膝を打つ言葉が何個もあった。

 

これまで子供を大多数の子に合わせなきゃと思っていた。素っ頓狂な受け答えをしたときは、間を縫うようにフォローをしてしまっていた。だけれど、いいやと思った。これが広い世界のどこかで正解かも知れないじゃないか。

 

これはファンタジーだけれど、もし人間がこれだけ長い間進化していないのだとしたら(何となくしてんじゃねえかな、という気はするが)そろそろやばい時代に突入し、それを生き残るために何か上下左右のバリエーションが、むしろ種として生き残る鍵になっていたっておかしくない。

 

バランスよく発達する反面、チャムが過ぎて、カッコーのひなのように自分と違うものをその場所から追い出す傾向を持つ子がいるとしたら、その一方で、体より頭の成長が早くて、バランスが若干悪い時期をある程度過ごすことが宿命づけられながら、最初から人との差異を認め、ギャング、チャムを経ないでいきなりピア的に人と付き合う子もいてもおかしくはない。どっちが未来的かといえば、後者に思えてしまう。

 

私は小2でいじめを受け、いじめ怖さに人と合わせるよう頑張ったが、その後十数年、なぜか畑違いのIT会社で、何一つ気を使わないで、むしろ気を使ってはいけない世界に奇妙な生きやすさを覚えた。そこで、ああ、気を使って周囲に合わせるがあまり、私は自分をあまりに殺していたのかもなあと知った。すすんで嫌われる必要はないが、すすんで好かれようとしなくてもいいかも知れない。好かれるように合わせたところで、それが普遍的な正解でないことは、結構多い。

 

今日、お迎えをしながら、複数のお母さんと話した時、彼女らもまたいろんな形に見え、それぞれに色んな癖が見え、別にすべった事を言ってもいいや、と思えた。そして家の方角が違うことを知り、それにもあまり焦らず、別にいいやと思えた。

 

そして私は帰宅してから、ずっと児童文学を読み、娘は全然興味を示さないが、それもいいや、と思っている。

 

そして明日から仕事で、何をするか全然シミュレーションしていないが、いいやと思っている(それはよくない)。新年度の冒頭って、そんなに緩いものなのかな。子供は勉強したくて逆立ちしています。