たまに言われる「知的障害の子に英語って必要ある?」

あっちこっちで英語を教えていると、よく、「知的障害の子に英語って必要ある?」と聞かれます。聞く相手は質問の形式をとっていますが、ぶっちゃけ「必要ないよね??」という顔をしています。

「国語ありきですよね。」と答えています。もし時間が余っていて、英語と国語、どちらを教えるべきでしょうと聞かれたら、「国語でしょうね~^^;」と答えています。

 

母国語の発達は、概念そのものの発達。それがなければ、別言語のイメージをつかむことは難しいです。一対一で単語の訳を覚えはできるかもしれないけれど、微妙に日本語と違う意味の範疇や、日本語と違うイメージを持つ文法は、難しい。

 

最近こんなことを思ったりします。英語を教えて良いとお上が言うのなら、それは教えてあげればいいんだと。どう活用する、何になるというのは別問題で、教えて良いというのであれば、それは子供達が学べる事が増えた、世界が広がるチャンスが増えたという事なだけで。こちらはただ、その子達の学びになるように努力すればいいんだ、と。

 

昨今よく混同されるんだろうなと思うのですが、勉強するというのは子供にとっては権利。その権利が必要かどうかの議論は、教える立場の人間にとって、あまり意味のある議論ではない気が私はするのです。教えてよしと言われたら、その権利に報いるために教える。ただただそれだけ。

 

きっと知的に障害のある子供は、英語を使って海外旅行をしないだろう。仕事で英語を使わないだろう。そういう人も非常に多い。だけれども、一つ単語を知るということは、一つ歴史を知るということでもあり、一つ、世の中で聞いて分かることが増える、世界が少し開けて見える、ということでもある。保障されているのはその権利であって、本人がどう活用するかは別問題です。

 

テスト。テストは先生がどれだけ子供達に勉強を定着させることができたのか、をはかるものだと、私は先輩方から教わりました。子供をはかるものではないのです。大人側をはかるものだと。昨今、入試に向けて定期テストでもかなり難易度の高いもの、教室でやっていない内容を盛り込む公立校があるらしいです。良し悪しですが、子供がもし点数を取れないのだとしたら、それだけ教室で定着させられていないんだと、反省すべきは先生なんですよね。

 

英語を教えていると、この日本でも、英語が分かると見える景色がはっきりするものだろうな、ということに気付かされます。クリスマスが近いですが、小さい頃から聞いていたクリスマスソング。ゲームのタイトル。映画のタイトル。ディズニーランドやUSJのアトラクションの名前…。もしかしたらすぐに忘れてしまうかも知れないけれど、知的障害のある子供が

「そういう意味だったんだ。知らなかったなあ。」

と言ってくれる、それは本当にやっていて嬉しいです。

 

「英語の時間、身辺自立にあてるべきです」という人もいます。それも言いえて妙かも知れない。だけれど、仕事で忙しく学校に通えなかった昔の子供達のように、仕事をするための「キャリア教育」だけを体験するのではなく、学びを楽しむ時間が与えられるのなら、それもまた大切な栄養だろうと思うのです。

 

母語の発語のない子でも、外国語の聞きなれない音に顔を上げ、集中する様子があったりします。重度・重複で母語のない子供でも、中で何かが起こっている。恐らくそれが、「学ぶ権利」なんだなあと。

 

必要あるかどうかは、本人が決めるんですよね。