やわらかい ぱん

いつか絵本にまとめたいブログ

ぺコロスの母

「毒親」という言葉を見かける。あれを見ると、悲しい気分になる。確かに、親と子がうまくいかなくて、この親でなければと思う事もあるとは思う。中には、顕著に虐待を受けた子もいるかもしれない。

 

毒親と言いだす頃は、丁度、子供が社会に出る頃、社会に出にくくてもがく頃じゃないかと思う。そして親は、いくつか前の世代の潮に乗っている魚なので、子供の感覚と少し違う。子供の肌で感じることと、なかなか共感覚を持てない。

 

そうはいっても、自分に乳をあげ、あるいは毎日哺乳瓶で熱くないか、ミルクの温度を手首でチェックして、おしめをかえて、時にお弁当を作り、時に喧嘩し、時に勝手にではあるけれど、部屋を掃除し、愛してくれた親だ。不器用かもしれないし、自分とパズルがぴったりとは合わなかったかも知れないが、「毒親」といいながら、本気で親を憎いと思う人は、おそらくずっと少ないのではないか。

 

憎まなくてはと思うのではないか。自分も、就職に失敗し、半年ほど行き先がない状態の時、まるでまだタマゴの殻から出ていない、生まれてすらない気分で、親をなぜだか、憎まなければ、ここから出られないと思ったことがある。

 

実家暮らしだった私を、母は追い出すこともせず、自分の仕事に忙しく、そのまま茫漠と置いていた。私はその頃、色々な心身症をやって、母としても、心配で、無理に追い出せなかったかも知れない。しかし、家の中で真正面から問題にもしてもらえず、十分大人の年齢なので、自分でどうにかしなきゃとも思いながら、結局ぬくぬく、実家暮らしをしていた。

 

母は有名な大学の教授である。私はその一人っ子。ずいぶんプレッシャーの中で育った。今は段々と、多様な生き方の一つで、それが世界最高の生き方でもないなと思うようにもなってきたけれど。

 

また、随分それを理由にいじけてもいた。母はあっけらかんとし、甘え上手。私は母を精神的に支えていると思い、食いつぶされているとも思っていた。本来なら娘の自分が脚光を浴びる世界にいて、母親は日陰でそれを支えるべきではないかとも思っていた。

 

自分の周囲の友人たちは、多くが専業主婦の子供で、自然、その図が成り立っていた。出世魚の人生に、何の疑問も疲れもなさそうだった。それは、影で母親が、社会進出する人生に憧れ、かなわない夢を子供に託しているからだ、と私は思った。陰に寄り添う人がいる友人たちがうらやましかった。その恵まれた様子を、自覚もしないで登って行く様子が、バカみたいにも思えながら、うらやましくもあった。

 

そして、母を恨まねばならないのではないか、と思った。そうしなければ、絡みつかれたようなものは、解けないのではないか。いつも私が「いってらっしゃい」を言う立場。母はきれいな格好で、「行ってきます」を言う立場。母は無意識に自分を閉じ込めているのではないか。心の中で母を殺すくらいでないと、自分は自分の人生を歩めないのではないかとも思った。そこから出て行かなくては、と思っていた。

 

が、泣けてくるのである。母は不器用ながら、随分私のために尽くしてくれた。仕事が忙しいのに、毎日、弁当を作ってくれた。誰よりも立派な弁当だ。離れていても、一緒にいるようにと、アップリケを縫ってくれた。抱きしめて欲しいと言ったとき、私が25を超えていても、いつだって、嫌がらずに、こちらがもういいと言うまで、抱きしめてくれた。私は母が、この世で誰よりも大好きなのだった。大好きなのだ。

 

もう日陰者でいいではないか、と思った。そうすると、少し気負いがとれ、楽になり、芯の強さではない、意志の強さではない、いうなれば男社会で教えられる強さではない、柔軟で粘っこい、当たり前の生物の生命力のようなものが出てきたようにも思う。

 

今、認知症の番組を見ながら、いつか来るかも知れない介護の時、その時はその時だと、それもまた幸福に過ごす予感がしている自分がいる。私は強い。それは鋼の強さではなく、粘土みたいなものだ。親が認知症というと、あまりに悲劇のようだが、大好きなママの世話をして、今まで仕事に取られていた彼女の身体に触れながら、昔話に付き合い、ぼんやり部屋の日の光を見るのは、もしかしたら幸福なのかも知れないと思う。

 

文字面におののいてはいけない。固有名詞の間にそれぞれの幸福がある。でもそれは言葉にあてはめられなくて、いつも間に挟まっている空気なのではないだろうか。

 

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そして母は今も色々と私の心配をし、自由にならない体で、あれこれ世話を焼こうとしてくれる。このイチゴも母がくれたもの。