やわらかい ぱん

いつか絵本にまとめたいブログ

美術の勉強は何に効いた?

山形に友人に会いに行ってきました。新幹線で約3時間。心のふるさとが一つ増えました。どこに行くかじゃない。そこで誰と過ごすかだな~とつくづく思います。思い出深い旅には、そこにいつも人がいる気がします。

 

でも同じ日本とはいえ、ほんのりと、あるいは結構はっきりと違う部分があって、勉強になりました。私の現在住む地域は決して都会ではないのですが、そうはいっても余剰な土地はなく、新しい何かが生まれる余白がないように思います。広大な土地というのは、一種カンバスの白い部分のように、人の独創性を許すものなのかもなと感じさせられました。

 

友人に連れて行ってもらった乗馬の施設は、おじさんおばさんが趣味でやっている所だとか。趣味で10頭もの馬を大事に飼えるって、発想できないじゃないですか。せせこましい地域に暮らしていると。趣味で馬飼うて。チワワじゃないんですよ。

 

さらには家の前に沢山電飾や石造のキャラクターを置き(自腹)、近所の人から「ディズニーランド」と言われているお宅。私の住む地域でこれをやっても、よほど小さい子しか目にとめない気がする。目に留まらないと、独創性は育たない気がする。なんかいいな…と思ってしまいました。

 

でも大変なことも多いのでしょう。一緒に回ってくれた友人のお嬢さんたちが、雪を見ては辟易していた様子を見ると、雪は本当に重たく厄介なものなんだろうなと。一年の多く雪があり、不便なものの象徴なのかも知れないなあと。

 

一方雪に憧れのある娘は、雪を見ては「遊びたい、遊びたい」と立ち止まる始末。お嬢さんたちに「雪の何がそんなに嬉しいんだろう」と謎がられていました。

 

旅では銀山温泉も案内してもらいました。素敵だった…。娘はそこのお土産屋さんで、なぜか普通の猫のぬいぐるみを買い、今も大事に一緒に寝ています。楽しかったね~~と断るごとに言っています。また行きたいねえ。今度は季節を変えて、例えば初夏の山形なんて素敵だろうなあ。

 

初めて勤めた会社の直属の上司が山形出身で、気のせいじゃないと思うのですが…そこはかとなく上司に似たお顔立ちの方がいたり、「通りを歩けば沢山麩の看板がある」という上司の描写そのものの道があったり。

 

心のふるさとが一つ増えました。山形いいなあ。

 

さて、山形を案内してくれた友人は、美大時代の友人です。絵を教えてくれないかと声をかけられることもあるとか。いいなあ。私の住む地域は飽和状態で、仕事になりゃしません。でもその代わり、賞を取れる絵を教えて欲しいと言われるそうです。なるほど。

 

絵画の先生に何が必要か、それは賞を取れる絵を教えること。画壇にいること。何となくハイカルチャーにアクセスできるというブランドを売れること、というのをネットで見て、ハア…とため息をついたことがあります。

 

今日FBに同じ大学の後輩がポストしていたのですが、図工に評価はいらないのではないかと。私も大賛成です。道徳と同じくね。…道徳って評価対象になるらしいが…。

 

こうして、かつて一緒に美術を学んだ友人達が、「評価はいらない」「その子の描くものを100パーセント受け止め、肯定することが大切だ」と意見を同じくするのは、頼もしく感じます。

 

美大を出て、就職氷河期で仕事がなく、会社を転々として辿りついたものを教える仕事。英語(仕事で使っていた)と美術(小さい頃から好きで、岩にかじりついて美大に行った)のどちらを教えるか悩んだ時期がありました。

 

美術は仕事の口がかなり少ないという情報もあり、英語は仕事で使っているものの、自己流。一度きちんと大学で学んで、自信が欲しいというのもありました。しかし美術を選ばなかった一番の理由は、

「美術で行くところまで行って、私は食えなかったじゃないか。そんな子を再生産できないよ。」

という、ねじ曲がった悲しい理由でした。

 

美大の友人達が、どんな絵でもいい、下手でも技巧的でも、それを100パーセント肯定することが美術教育じゃないか‥?という境地にいることは、食える食えないではなく、きっと美術は心を育てたんだろうな…?と思います。

 

久しぶりに絵を描きたい春です。お絵かき帳をもって、娘と公園にでも行こうかな。

多分今やっている学習の先にあるかも知れない未来に憧れがあれば

娘がまだ寝ているので、中学数学を解いています。大人になって気づく何かですが、中学数学って、何かに向かっての準備ですね。小学校のように、割り算ができました。割り算のひっ算ができました。わーい。じゃあ次、別のことします、ではなく。ひたすらに何かに向かって山を登っているなという実感が、中学数学を解いていて感じられます。

 

多分きっと、微分積分にむかって山を登っているんでしょうね。だからいつも山の途中という感じがして、「もう十分だよ、どこまでややこしくなるのか、頂点が見えないよ」と中学時代の私は思っていたような気がします。

 

微分積分に向かって山を登っているというのは、経験で知っているわけではなく、公文(くもん)の数学は微分積分に向かって積み上げていき、それに必要のないものは排除していると説明会で聞いたので、中学数学も多くはそうなのかな…と予測しているにすぎません。私は確か高校数学Aまでしか…やっていないんじゃないかなあ…(美大受験のため)。

 

中学英語もまた、高校レベル、大学入試レベル、大学一般教養についていけるレベルへの山登りです。be動詞のyes/noで答える質問を理解したから、もういいよ、という訳にはいかない。それなりの文章をスラスラと読んで理解し、それなりの作文ができるようになり、それなりに聞き取れるための序章ですよね…。

 

どちらも勉強をしながら、その先にある世界に憧れがないと、「もういいよ、ここでいいよ、ここで十分よ」となる気がします…。だけどその先もしかしたら、「物理で世界を違った見方で見られるかも知れない」とか、「憧れていた翻訳の本を英語の原書で読めるかも知れない」とか、そういった憧れがあったら、何だか山登りもがんばる気がします。

 

最近、昔々あった輸入雑貨のチェーン店「ソニプラ」によく似たお店を見つけました。中には洋書の絵本や、アメリカの安い雑貨がたくさん。

 

ああ!中学高校時代、よく通った!!あの、再生紙のせいかすっごい臭くて薄いルーズリーフ、買って使った(disってないですよ)!やばいくらい甘いチョコ、買った!すっごいリング部分がでかくて邪魔なノート、買った!そして、なかなかすらすら読めないけれど、洋書の絵本、「読めるようになりたいなあ…」と憧れた…。

 

自分の根っこにも、英語がうんとすらすら話せて、読めて、聞けたらいいなあという憧れがあったんだなあと、改めて思い出すきっかけになりました。

 

昔縁のあった英語が嫌いで数学が好きな子は、物理や宇宙の話が大好きでした。その子の話を聞いていると、数学も面白いなあと思えてきます。

 

とにかく手持ちの札で試行錯誤をする子で、スポーツにしても、大きな科学的難題にしても、間違いで凹まず、失敗で落ち込まず、あれこれあれこれ試すのです。それを見ていると、間違うことで自分を勝手に卑下し、あらゆることに対し「きっと向いていない」と尻尾を巻いていた自分の性格がアホらしくなってきました。

 

間違っていいのです。間違うのです。それでも続ける子は数学に強くなる気がします…。そして、より粘着質な性格だと、英語に強くなる気がします。粘着質がいいとは、2番目に通った大学の講師の先生が言っていたのですが…。

 

英語も、大学入試の長文を読んでいると、その内容は大学の授業のはじめに読む文のようで、その先広がる広い学問の地平を感じ、非常に学びの要素があって、美味しいです。うまいうまい。

 

なかなかそういう学びをしっかりと完成させ、大学に行く子は少ないんじゃないかと思うのですが、中学高校で基礎を登り切り、その先に見える地平は、それを使って何を学ぶのか、何を世の中に還元するのか、に思えてきました。

 

英語の得意な友人が「英語を使って何をするか、だ」と言っていましたが、余程の語学マニアでない限り、その地平に顔を出しますよね。

 

というわけで、私は英語長文の内容を通して社会学に若干興味が出てきてしまい、とにかく落ち着けとこれから今日の分の英文長文を読みます。昨日は東大の問題を解いたんですよ~~。でも、明治学院大学の問題文のほうが、苦手でした…。ぐれそうになりました…。

子育ての合間に中学数学おすすめです

おすすめですの「です」は「death」です。

 

もうすぐ私の住む地域も桜が咲きそうです。華やかな一時がやってきますね。…私はソメイヨシノがすべて一本のソメイヨシノからできたクローンと聞いてから、咲いているソメイヨシノが全員綾波レイに見えるという奇病にかかっているのですが。

 

さて、子持ちにはしんどい長期休暇です。これまで、なぜ友人達が長期休暇になるとどーんと旅行に行くのか謎でした。が、子供がでかくなってきて、分かり始めました。分かった。間が持たないんだね…?(違った…?)

 

我が家もぼちぼち一泊二日の旅行が近づいていますが、それまでは娘と足枷で、撃ち合いの日々です。パーンパーン。

 

朝から布団の上に乗られ、前歯を蹴られながら起床。そのまま朝飯を寄せ集めて出し、エクトプラズムを吐いていると昼飯。いい加減着替えない娘をあの手この手で着替えさせ、買い出しに出かけたり、縄跳びの練習をしたり。公文をやったり、外でサッカーやったり。

 

周囲を見回せば、同じように死んだ顔で息子のサッカーに付き合うお母さんや、死んだ顔でバドミントンの羽根が入ってしまったお宅のインターホンを鳴らすお母さん(足元に子供)。

 

公文も、エネルギーを持て余した子供が、いつもに増して怪獣度を増しているようで。

 

お陰で云十年ぶりに縄跳びを飛んだり、楽しいっちゃ楽しい部分もあるんですが。こちらもさすがに人間なので、ちょっと集中して自分の時間を持ちたい時。

 

中学数学がおすすめですよ、皆さん。子育てに限らず、静けさと自分の時間と、何かやったという満足感を得たい時、中学数学の計算問題は超お勧めです(death)よ!

 

公文の先生になるための試験準備(具体的な計画はないんですが、ひとまず資格だけ得ておこうと)で、中学数学の参考書を買いました。かたっぱしからコツコツ解いています。書き込めるタイプの、ちょっと大判のものを買いました。

 

娘が家族の他をターゲットにしている30分の間。旦那が早く帰れて、娘を風呂に入れている小一時間の間。ごはんを作り、食べさせ、片づけが終わって、ふうと座った一時。

 

計算だと一つ一つに時間がかからず、一問で鉛筆を置いても何ら問題ないので、細切れの時間しかない今、まさに、数学の計算は神!

 

英語の長文も解いていますが、こちらは文を読んでいる途中で席を立つと、ぱっぱらぱーになるので(その程度の読解力)、計算問題こそ、神!

 

私が中学のころは、数学、あまり周囲の友人に人気がなかったんです。が、教育実習に行った中学では、数学が好きって子、結構多かったです。女子も数学が好きって子が多かった。

 

英語が大の苦手の子を教えていましたが、数学が大好きらしく、英語では集中力が切れやすいのに対し、数学は集中が自然と続くようでした。

 

数学の魅力って何でしょうね。

 

数学が、色々な公式や単元はあるものの、計算そのものの基本はずっと四則計算(足す、引く、かける、割る)なのに対し、英語の場合、文法というルールを習得しなければならず、しかもそのルールがやたらめったら種類があり、そのくせ結構ファジーだったりします。

 

(比較級のmore とerのどちらを使うのかという線引きとか、to不定詞と動名詞ingのイメージの違いとか、受身形の分詞と動名詞の分詞の使い分けとか、現在完了形と過去形のイメージの違いとか、そもそも何で主語が三人称単数で現在形の時には動詞にs(es)がつくんだとか、何でIだけ大文字なんだとか(印刷技術ができてからだそうです)、現在進行形を習うとカンのいい子はつまづく、じゃあ現在形って何!?とか…。He is taller than me.の普通だったら主格が来るところ、そういう感じに多くのが慣れちゃったからという理由で、目的格がきたり、規則動詞の過去形は単純にedをつけるだけじゃなく、yをiに変えてedとか、yなのにiに変えないでedとか、さらには不規則動詞の活用とか!!)

 

さらには、違う言語からイメージを浮かばせるような国語能力も必要になります。

 

…何でこんなのやらなきゃいけないの?と思うと、一気に英語が嫌いになるかも知れませんね…。じゃあ私は何で、英語がわりと好きなんだろう…?

 

娘が餃子を食べたいと言っているので、このあたりで…。

自営業の師匠

昔フルタイムで働いていたころ、夕飯をよく立ち食い的な蕎麦屋で食べていました。別にすごく倹約していたわけじゃないんですが、早くて安くて結構美味しかったので、通っていました。

 

おじさんはその小さい汚い(汚い…)店を30年とか40年とかやっているそうで、おじさんの人柄に魅せられてか、集まるメンツも面白かったんです。近所の新しい飲食店の店主が、バイトへのイライラがたまったらやってきて、ぶわーーーーっと愚痴言って帰って行ったり。宗教の人もいたし、身体に障害のある人もいたし、なぜか狭い店に身を寄せ合って家族連れも。

 

そこで、店が長年の調理で油だらけのわりに、それなりにしっかり洗ってあるコップに自分で水を汲んで、何のベトベトか分からないデフォルトでベトベトのカウンターでソバを食べるわけです。

 

話は飛ぶんですが、先日おしゃれコーヒー屋に入ったら、渡されたマグカップに前の人の口紅が残っていまして。店のキャッチーさはフランチャイズのキャッチーさであって、中はスカスカなんだろうなと、何となくブルーになった出来事でした。別に誰をdisるつもりもないんですが。

 

さて、蕎麦屋のおじさんは、ときどきラジオに突っ込みを入れたり(思想は少し左寄り、結構インテリ)、新聞のネタを話しかけてきたり。また、自営業の心得を話してくれることもありました。

 

当時、フルタイムを辞する気はさらさらなかった私でしたが、この自営業の心得が面白くって、この話が始まったときは、相槌に困りつつ、「お、待ってました」の気分で聞いていました。

 

自営業は波がある。お金が入る日もあれば、入らない日もある。その細かい一喜一憂に翻弄されないようになるには、時間がかかる。俺なんか40年もやっちゃっていると、大体読めるようになるのよ。落ち着いたもんよ。凪の心よ。のほほほ~~~。

 

身の丈にあった、正直な商売がいい。かっこうつけた商売をやっていたところは、みんな潰れちゃったよ。(わりとさびれた地域です)おじさんはその割に周囲の店舗を「ライバル」ではなく「仲間」と感じるようで、新しい飲食店の店長さんが慕って、よくおじさんのところに来ていました。

 

さて、もう一人自営業の師匠がいます。義母です。親戚経営ですったもんだあった実父の会社を、自腹と、足りない分は旦那に無心して立て直し、株の所有や建物の所有の一部、親戚のものだったものを結構な高値で買い取って、ようやく自分の手元に資本を一本化した義母です。

 

こういう様を見ていると、場所を借りるのに「安いから」「無料で提供してくれると言ったから」などの目先の理由で親戚縁者を頼るのは、かえって後々お互いに不幸になりやすいのかもなあ…と思ったりします。

 

自営業が長続きするコツは、できるだけ恒常的な支出を減らすこと。その最たるものは、場所代ですよね。絶対的に外に場所を借りるより、自宅がいいとは思う。

 

だけど、今娘が習っているくもんの教室から自宅が近いので、例えば違うお教室…ピアノとか、絵画とか、食い合いになりにくい教室を開くならまだしも、同じ公文はないなあと。

 

そんな感じで逡巡しながら、もうすぐ実母が長い現役生活を引退するので、そして趣味のない人なので、時々手伝わせながらお教室ができたら、…まあ実入りは少ないですが、実両親がこの世を卒業する少しの間、わりあい楽しく暮らせるだろうなあ、という目算もあります。

 

やっぱり子供って、いいです。年をとると老人だけの世界に塞ぎがちになるので、そこにひっきりなしに子供の声がしているだけでも、いいかなと。(我が家のメンバーは)

 

本当は自宅がいいんだけど。とりあえず場所問題は保留にしながら、春休みにてこでも着替えない我が子と戦ってきます。

 

まあ義母にしてみたら、とっとと占いを勉強して、教えられるようになんなさいよ!って事なんでしょうが^^;

くもんの先生の説明会に行ってみた

子供がくもんで国語をやっています。

習っておいてなんですが、国語を習うって何をするんだ?と謎でした。

ともかく、子供はせっせと数行の平仮名の文を読んでいます。楽しそうです。

 

私も公文を習っていました(算数のみ)。ほんの2~3年でしたが、すらすら解ける下学年の勉強からはじまって、気づけば学年より先を進むようになりました。学校では既習の勉強をするので、余裕をもって授業を聞けました。

 

最近まで、公文の印象って自分の中にそんなに残っていなかったんです。公文から切り替えた中学受験用の進学塾は、とにかくスパルタで競争心をあおるスタイルでした。一斉授業で、なぜかいくつかの授業はボーっとしてしまい、よく殴られ、その後も悪夢として何度も見るくらい、よくも悪くも強烈に印象を残しているのですが。

 

公文の印象…。子供に連れ添って公文に通う毎日で、だんだんと思い出してきました。印象がないのは、あまりストレスがなかったからのようです。

 

自分のレベルの問題が来るので、全然解けなくて悪夢を見るような事はまあなく(塾や中学入試の一斉模試では多々あった)、苦労をしている自覚も、ともすると勉強をしているという自覚もなく、ぼーっと問題を解いて、ぼーっと帰ってきたように思います。

 

時には、苦手な範囲でなかなか100点が取れず、何度も何度もプリントを突っ返させ、何が間違っているのか分からず、イライライライラ(先生も巻き込んでイライラ)したのは覚えていますが、「自分はこの手の計算、随分注意しないと間違えまくる」という自覚が芽生えた程度で、特別嫌な思い出も、特別いい思い出も、本当に特にないのです。

 

自宅開業教室だったので、先生の子供が台所からびっしりカビの生えたミカンをもってきて、

「ママこれ、何?」

と聞き、先生が大慌てする、ということは、面白おかしな記憶として残っています。カビってあんなにきれいにみっしり生えるんだ…みたいな。

 

どうしたってストレスがあるはずの勉強する場にしては、いい場所だったのでは、と今更ながら思います。

 

さて、子供の習っている公文の国語。国語って何をするんだ?

娘の公文の先生は、最初は国語を習うのがいいよ~と言うのです。都立高を受けるなら国語の長文の量は半端ないし、読書好きになるかもしれないし、全ての学力の下地になるよ、とも。

 

国語の点数は良かったけれど、中学の後半から数学や化学の点数が壊滅的だった私は、国語がどんなメディウムの役目をしているのか、今一つ懐疑的でした。だったらもう少し数学、化学、マシでも良かったのでは…。

 

娘の公文の先生。実は上記の私が小さい時教わっていた先生でもあるんです。40年は教えられているのでは…。始めからあまり商売っけのない先生でして、何だかもう親戚みたいなものなので、国語なあ…と思いながらも、習い始めました。

 

いや、国語、いいものです。

 

ちょっと話が飛びますが、最近私は趣味半分、実益に結び付くかもという期待半分で高校英語を自習しています。入試問題の難易度高めの長文を四苦八苦しながら読んでいると、国語力っていうのは、他の教科でも、見えないところで効いているなあ、と実感しました。

 

英語。高校でも、大学でも、入試では大体長文が出ますよね。その全部の単語が分かり、全部の言い回しがわかり、手にとるようにスラスラ文が読める…ということは、殆どないんじゃないか、と思います。

 

分からない単語は周囲の文から当たりをつけます。一文まるまる分かりにくい時も、文の流れから、それが例えば文章全体のターニングポイントになる重要な文か、重要なくせに一度しか言わないいじわるな文か、あるいは他の文から流れをつかんでいれば乗り切れる文か、当たりをつけます。

 

読みながら何を言おうとしているのか予測をしたり、理解をしたりしながら読み進めます。「何を言っているのか」の理解や了解に、それまでの文章を読んできたストックや、国語力が効いているかも知れないと感じます。全く予想外のアイディアを書いてある文と、どこかで見聞きした内容や、それに準ずる内容の文とでは、同じ単語力、熟語力でも、理解の容易さが全然違うように思います。

 

「この長文に最も当てはまるものを以下の選択肢から選べ」という問題は、四苦八苦して長文を読みながらも、一文一文細切れで処理するのではなく、「この長文はどういう構成で、各段落では何をいっていて、全体で何をいっているんだ?」と把握しながら進む技能が必要です…よね。

 

theyやitといった「代名詞の意味を明らかにして、この一文を訳せ」という問題では、代名詞の意味を文章の中から探す力や、「この意味だと…何か変だな」という読解力、そういうものがすごく大事ですよね。

 

同じ言語や文章を扱う科目である国語と英語。英語のごくはじめの学習ではあまり感じないかも知れませんが、そこそこの長文になってくると、こんなにも国語の下地が必要になってくるんだな、と感じます。…つうか、感じています^^;

 

算数や数学の文章題にも国語の力は生かされる、とは聞いたことはあります。算数数学の文章題なんて、国語力そんなに要らんだろう…?と思っていたのですが。

 

最近家庭教師派遣会社の抜き打ちテストを受け、なぜか数学も受けさせられたのですが(教えられません、と自ら辞退していたのですが^^;)、挑戦してみると、思ったよりも解ける。…いや、普通の人はもっと解けるんですが。

 

少なくとも自分が中学受験した時より解ける。あれから云十年経っているのに。たぶんこれは、文章題でややっこしい所を、そんなに混乱せずに順序立ててどう計算するか整理できるようになったから、なんだろうなと。小学校のころより、多少なりとも国語の力がついて、苦手だった数学にも効いているように感じました。

 

さて、そんなこんなで、毎日子供の公文の宿題に付き合ったり、一緒に通ったりしている内、すっかり公文に傾倒し、今日公文の先生になる説明会を受けてきました。

 

まだ本腰で開設する段階ではないですが、やってみたいなと思う自分もいて、とりあえず個別説明会&試験という、次の段階に進もうかなと思っています。恐らくテナントを借りて…になるので、まあ慎重になりますが…。

 

試験。…数学勉強しなきゃ…。

 

公文の名誉のために言っておくと、公文でやっていた算数の範囲は、本当に不思議なことに風化せず、云十年経っても平気でテストで回答しています。

 

なんかこう、あれこれ勉強したいことが出てきて、充実した気分の春です。