一緒にいると安心する石 ユナカイト

これ…石好きの人にはあるあるなのかも知れないんですが、石ってなくなるんですよ…。

 

これまでアイオライトは、何と一つたりとも手元に残った試しがない。さらに水晶はポイント、立派な標本、水晶玉、無くなっています…。ローズクォーツのハートの握り石もどこかに行っているし、大好きだったユナカイトのハートの握り石もどこかに行っている。

 

平素そんなに物をなくす方ではないので、謎です。アイオライトに至っては、一番最近無くしたのはリングです。結構お気に入りで、大事にしていたものでした。リング類は必ず決まった箱にしまうので、そこから忽然と消えているのに気付いたときは、「まじか‥またか‥」という、私自身がキツネにつままれた感じでした。

 

ユナカイトのタンブルは本当に大好きで、何かで、身動きが取れないほど緊張が高まり、寝込んでいたときに、握っていたのを覚えています。いつだったんだっけ、なぜだったんだっけ。

 

ユナカイトはモスグリーンと、くすんだピンク、部分的に石英なのかな、白が入った、マーブリングしたような、何ともいえない風合いの石です。興味がない人からしたら、グロテスクに感じたり、気持ち悪いと感じるかも知れない…。しかし、大好きな人からしたら、本当に、慣れた安全毛布さながら、全部を包み込んでくれる、本当に暖かい、優しい風合いの石です。どんな石でも強く感じてしまう時ですら、ユナカイトはほっとします。

 

とっても大事にしていたのになあ。とはいえ、『ビロードのうさぎ』のように、心が風邪状態の私と寝ていて、ヘトヘトになってしまったのかも知れません。…などと、想像します。元気になったら、またどこかからかひょっこり出てきて欲しいなあ…。

 

今日は職場もお休みが多い日でした。気温も、ぼちぼち本腰入れて冬です、という感じがします。今日はユナカイトに会いたかった…。あの風合いを見ながら、ハッピーターンを食べて、ゆっくりお茶したかったなあ…。

上野国立博物館でどんぐりを色々見つける

先日、家族で上野国立博物館のマルセル・デュシャン展に行ってきました。

 

子供を大人の趣味に付き合わせて…と言われそうですが(言われないか)、我が子は不思議と、退屈だろうに、美術館が好きです。小さい頃から美術館のワークショップにはまったり、鼻息荒く、裏紙に模写をしたり。時に大人の方が飽きるほど。

 

そんなわけで、マルセル・デュシャンの作品(モナリザを使った作品や、便器を使った作品)を説明したところ、興味を持って、かねてより旦那が行きたがっていたマルセル・デュシャン展に家族で行けることに。

 

ただ展示自体は、概念をひっくり返すようなもので、ちと頭を使うもの。しっかりキャプションを読んだり、音声ガイドを聞いたり、事前にラジオで特集されていた番組を聴いていた旦那は楽しんだものの、行き当たりばったりで物を見るだけの私と子供は、う~ん、正直ちょっと今一つ。

 

まあ、美大生時代に西洋美術史の教科書にあった便器の実物(つうかまあ、ただの便器なんですけど)を見られたことは、とても嬉しかったです。後は、デュシャン展の最後の部屋を占めていた日本美術の展示のほうが、個人的にはとても好きでした。

 

ところで、我が子は小学校で、どんぐりを集める宿題が出ていました。人より木の多い地方に住んでいるので、簡単…と思いきや、これが結構苦戦。

 

旦那がキャプションを熟読する間、子供と私は国立博物館周辺を散歩。こんな都会の整備された公園に、どんぐりなんてないよね…と思いきや、あるある!穴のあいていない立派などんぐりが、ゴロゴロ。どんぐりの種類も複数ありました。また、メタセコイヤやヒマラヤシーダーの松ぼっくりのようなカサも落ちていました。

 

公園に落ちているものは、公園のものなんでしょうかね…。ただ、落ち葉を掃いて、あとは腐らせるのを待つ、みたいな場所のどんぐりは、もらってもいいのかな…と思い、ちょっともらって帰って来ました。

 

かくして我が家のどんぐりが着々と増えています。茶色く宝石のようにつやつやのどんぐりが増えて行く光景は、それだけで豊かな感じがして、祭のような高揚した気分になります。

 

縄文時代の子供は、こんな風にどんぐりを拾う係だったのかもなあと思いながら、子供の後をついて回りました。子供は木に話しかけ、鳥を追いかけしながら、どんぐりの木を探していました。自分も、このレベルの遊びから、実はあまり成長していないよなと思います。

 

食物は採って食うが主流だった頃は、集める事の喜びは、生活に直結していたんでしょうね。貝とか、どんぐりとか。今は集めるのが好きな人、採るのが好きな人、その要素だけ切り離されて残って、気持ちいびつに生活の中で活用されているような気がし、そんなことをいっても、いつの時代もちょっとずつ生きづらいんだろうからと、蓋をしました。

 

どんぐり、食えるかな。

 

調べてみると、「スダジイ」というどんぐりが、ものすごく簡単に食べられるそうです。

sirabee.com

 

スダジイ、上野の国立博物館の、東洋館(アジアギャラリー)脇のカフェみたいなところの近くに生えていたドングリによく似ています。食って…みてえ。

 

そういえば、季節的に「むかご」も採れる時期だそうです。むかご、小さい頃よく見かけました。塩と油で食べられるそうです。今日、探してみようかな。

スピリチュアル女子がそこそこのバランスで生きて行くために

スピリチュアル女子が話題になっているらしい。私はブログを見て頂ければわかる通り、スピリチュアルおばさんだ。しかし(この文脈からすると、次は自分は違う、が来るわけだが)無意識的に避けていることはある。

 

・徒党を組まない

そもそも私がスピリチュアル的な世界が好きなのは、人の輪の中にいても、どうもぐるぐると解決されない物があって、何か濁る感じがあるから。お喋りに明け暮れるのは楽しいけれど、とっとと解決しろよと、イライラしたりする。

 

結局スピリチュアルで繋がって、人と徒党を組んだって、同じだろと思う。カフェでお喋りしあい、声の大きい人を立て。そこにヒエラルキーが生じ。結局そこでもまた、私は、何か違うと感じ、自分一人の世界が欲しくなるだろう。だから、徒党を組まない。

 

・お金を取らない

スピリチュアルの世界は、何の修練を積むでもないので、楽ではある。これでお金が稼げたら、楽だろうなあと思う。石が好きなので、海外やミネラルフェアで石を仕入れ、売りたいなと思ったこともある。ただまあ、あくまで趣味の範囲だな、せいぜいと思う。

 

お金を得るということは、お金を払うほどの価値があるとうたうことをしないといけない。すると、この石を持つと、こんないい事が、こんなパワーがと、まるで本当に効く薬を売るような事をしないといけない、かも知れない。

 

確かにお守りとして持っているので、何かしら守ってくれていると思ってはいるが、曖昧だからいい所がある。きれいだなと眺めているときの、瞑想に似た、日常の雑音や不安からふと抜き出る感じ。もしかしたら、それが9割かも知れない。そうじゃないかも知れない。

 

商売にするには、あるフィールドに言葉を乗せなければならず、そこまで明示的になったら、ウソに近いように思う。0じゃないけれど、決して100じゃない。日によって3だったり、80だったりする。そこを大事にしたい。

 

100にするということは、次の日はそれを自分の中で否定し、0になる可能性もあるという事だ。曖昧なまま、ゆるゆると祈っている。そのくらいのバランスが、自分は一番精神衛生上バランスが取れているように思う。0にすれば、確かに具体的な物事は進むんだが、どこまで進んでも、幸福感がない。私はポンと日常抜け、祈ったり、思いを馳せたり、時々その中で遊ぶこと自体が、多分結構大きな楽しみでもある。それに、結構な市民権を得ている楽しみだって、結構危ういでしょう…?

 

・幸福を追い求めすぎない

私は日常の労働の中で、しんどいと、幸せが表裏であると思いたい。飯づくりはしんどいけれど、その中で幸せな光景がある。掃除は面倒だけれど、その中で幸福な瞬間がある。たぶん生きるって、そういうもんじゃないかと思っているし、思っていたい。絶対的な幸福はない。多分絶対的な不幸も、ないと思いたい。

 

もちろん、限界まで我慢する事はおかしいけれど。まあいつも、2,3割濁っているものだ。

 

・つじつまを合わせる物語を信じない

これは自分の中でもっとも胡散臭いと思うものなのだけど、徒党を組んだ時、誰は誰の生まれ変わりで、前世は結婚していてとか、やたらと物語を構築する場合がある。自分が中学生の頃、先輩達がなぜかスピリチュアルごっこをこじらせ、このフェーズまで行った事がある。そんな物語、作らなくてもいいよ、と思った。今繋がりたいんだよねと。これに限らず、明らかな物語が構築されていると、もはやカルト的だな…と思ってしまう。ここまで来ている場合、私は全力で距離を取る。

 

ヒヌカンという神様が沖縄にいるらしい。かまどの神様、火の神様だ。朝ごはんを作る時、みんな寝ている時間、まあ、しなきゃいけないんだけど、しんどいなあと思う。そんなとき、これはヒヌカン、一日の最初の火、聖なることでもあるとふと思うと、自分のしていることが意味のあることに思える。

 

なので、私は今日もゆるゆる信じるよ。一人でだけど。

あんまり寒いので、お湯にまみれる

仕事帰り、あまりに寒く、帰宅して湯船。いつもの水温ではまだまだ温まらず、さらに温度を上げる。

 

湯上り、腸が張っている。冷えすぎた‥。腸が張って食欲がないんだけれど、家族の夕飯何か作らなきゃ。

 

子供ここのところ、野菜をうまく採っていない。そしててきめんに便秘気味。今日は彼女の好きなワカメを味噌汁にする。大豆たんぱくも同時にとろうと、油揚げと、大根と。

 

大根を切っているときの密かな楽しみは、つまみ食い。びっくりするくらい甘かった。いや、びっくりした。子供にもあげると、もりもりと食べてしまった。辛みや刺激、炭酸が苦手な子供。全然辛くなかったらしい。

 

油揚げを切るのも楽しい。ふかふかの油揚げ。美味しい油揚げだと、切ってつまみ食いしても、相当美味しい。「生揚げ」と書いてあるスーパーの油揚げ、これ本当にそのまま食べて美味しく、ついついつまみ食いしてしまう。

 

たっぷりのお湯に味噌を溶かす。味噌汁って幸せな感じがするなあ~。冬、特に幸せな感じがする。何かしたいけれど、何すればいいんだろうって時、味噌汁覚えておこう。

 

昨日の鍋の残りに鶏肉を入れる。味見するけれど…正直味噌汁の方がうまい。だしパック、味噌の味噌汁。本当美味しいんだよね、正直、ケミカルなものが入っていない汁物って、五臓六腑に染みる。ぬちぐすい(命の薬 沖縄)って感じだ。

 

今はご飯を炊いている。真っ白でふかふかの熱々ご飯。今日私は腸が張っていて、食えないけれど、多分家族で争奪戦になる。白米を洗うとき、炊くとき、あの、土鍋の蓋を開ける瞬間、白い米が真っ白なご飯に変身しているか初めて対峙するとき。あれはまさに、本当に、聖なる時間だ。白い光に包まれた時間だ。

 

というわけで、ご飯が蒸れたら、夕飯の時間。その間にお湯たっぷりで、お茶を淹れた。寒い日にあちこちからぼうぼう湯気を上げる。湯気にまみれて支度する。贅沢だなあと思う。

 

気分も上がりにくいこの季節。特に今日は寒い雨。毎年大晦日までこんな感じ。こういう時は、暖かくして寝よう。

林の中にいるように人の中にいる【珪化木】

最近珪化木(ペトリファイドウッド)にはまっている。色合いがクリーム色&濃い茶色。多分春になったら、色合い的に仕舞いそうだなと思う。この石…というか木の化石、どうも人肌恋しくなる感じがし、人が大好きになる。

 

いつも教室で子供を教える時、その日のノルマや、保護者の見えない視線、色々と子供には見えないずっと上空のことを気にしてしまう。しかし珪化木を身に着けると、そこにいる子供達と過ごせるこの時間こそ、もしかして自分の人生でいっとう楽しい時間なんじゃないか?と気づける。これはすっごく大事だなと思うし、大好きで手放したくない感覚だ。

 

ここからは想像で遊んでいるのだけれど、もしかしたら手持ちの珪化木は、同じ樹木のうっそうとした林が化石化してもので、仲間と肌触れ合って成長して、枯れて、化石化して、それで楽しい人生(つうか木生)だったんじゃないかなと。それが楽しいし、そういうもんなんだよと教えてくれているような気がする。

 

 思えば私はずいぶん人を警戒してきた。いつからかと考えるに、小学校でいじめられた辺りからなのかなあ…。人と会うとき、どこか自分を疎んじていないか、陰口を言われていないか、自分は嫌われているんじゃないか、なぜかすごーく人を遠くに感じる事が多い。

 

珪化木を持つと、人も自分と同じ種類の木だと思える。これってすごく新鮮で、だったら肌触れ合うのが自然で、人に会いたくなるのが自然で、一緒にいることこそ自然に思える。楽しい。こんな経験知らなかった。わあ、損してきた感じする!!

 

 できればもっと教えて欲しい。身につくくらいに。

 

さて先日、「スーパーセブン」という石が到着した。1か月くらい待って、ようやくドイツ(!?)からやって来た。もう見た瞬間、「きれいだなあ!」と大感動。しかしこの石、まだよくわからない。

 

色んな鉱物が交じり合っている石で、自分の手持ちのは、アメジストがベースに、赤っぽい雲母のようなものが浮いている。赤い落ち葉が夕暮れの光に美しいこの季節に、ぴったり似た石だ。静かで思慮深く、お母さんぽくて、穏やかで、とても好きだ。

 

なんだけれど、色んな鉱物が混じっているせいなのか、今だに掴めない。純粋なアメジストとも違う。色合いが暗いので、スモーキークォーツと比べるが、それとも違う。

 

例えば初対面の人と会い、ちょっと詰めた話し合いをしなきゃいけないとき、相手はどういう人なのか、自分と同じ設計図か、違う設計図か、探る。この言い方が伝わるか、この言い方では曲ってしまうか、など観察したりする。

 

石もそうで、大概の石は「私はこういう石です」と、第一印象からこちらの気持ちにストンと気持ちよく入ってくる感じがするんだが、スーパーセブンはとんと後ろが取れない感じがする。

 

その感じがちょっと面白いので、これはごっこ遊びみたいなものなのだけど、「どんな石なのかなー」と思いながら、身に着けている。

 

今書きながら思ったのだけど、自分に似ていなければ似ていないほど、人もユニークな刺激をくれたりする。石もそうで、色合いや反射の仕方などで、「そうきたか~」と学ばされる感じがある。

 

もしかして、心地よく抵抗感がほとんどないスーパーセブンは、自分に似すぎている石かも知れない。自分に似ている人って、多分、最後まで後ろが見えにくい。