やわらかい ぱん

焼き肉はホルモンが好きです。みなさんはどうですか。

2017年10月のカレンダーと よもやま話

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秋めいてきて、過ごしやすくなってきました。最近急に、外で遊ぶ…ではなく、家でこもって、あれこれ思いを巡らせたり、考え事をしたり、心を肥やすことがしたくなります。

 

昔就職にあぶれて時間が有り余っていた時、秋の日ざしってきれいだなと、ぼんやりテーブルに落ちる窓の日を眺めていました。すごく透明で、おそらく黄色が少し混じるのでしょうか、エーテルっていう言葉が浮かぶような、特別な日の光なんです。

 

以来、フルで働いているとなかなかこの、秋にぼんやり日中の日差しを眺めることができない、それがつらかったなあと思い出します。奇妙なところで、贅沢を欲します。

 

現在は…家にこもって、静かに牛乳の混じった甘いものを飲みながら、本を読んだり、絵を思い切り色を使って描いたりしたい私とは対極に、「涼しくなったんだからお外で遊ぶ!!」の娘に踏んづけられ、揉みしだかれ、その時間がとれないのがきついですが、何とか小さい絵を隠れてやりくりして描いています。

 

ドクターマーチンのカラーインクを大事に使って描いています。我が子にその現場を見られたら、速攻で色水遊びにすべてを使われるという恐怖から、隠れて描いています(苦笑)。すまぬ、母も人の子なのだ…。5歳児にドクターマーチンのインクすべてを自由に使わせられるほど、如来にはなっていないのだ…。

クマ描くのが楽しいだけなんですが…。

10代の悩み、20代の悩み、30代、40代、50代、60代。いつか幼児のころのように悩みはなくなるのかなと思っていましたが、そっか、時間は戻らず、悩みは消えず、その形を変えて、増えたり減ったりはしつつ、死んでいくんだなあと、最近感じます。

 

具体的には、ニキビはいつか消えると信じた10代。ニキビは消えたけれど、シミに悩む昨今です。

 

そのうち、いつまで自分の足で歩けるだろうということを悩むらしいと年配の方の話で知り、そうか悩みは永遠に消えないのか。なら、そこそこ毎日ほどよくチートしながら生きなきゃ、楽しみもないのかもな、と思ったりしています。

 

夭逝した作家の絵や作品は、ストイックさが、混じりけのない結晶のように美しかったりします。だけど、長生きの作家の、雑味の混じったワインのような、角のとれた作品は、また教えられる世界があります。

 

ほどよく緊張を解いて、チートして、そのラフさこそ、自分が今後学ぶべきことかも、また、年とった人が若い人に示せる何かなのかもしれないなあと、思ったりします。

 

…と、子どもにお腹や腕をもまれながら、考えております。

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秋っぽいクマが描きたかった。

秋らしくなってきて、秋らしい色の絵とクマを描きたくなりました。というわけで、9月のカレンダーをこしらえました。

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余談ですが、カレンダーの数字書くのって、めっちゃ落ち着きますね(笑)。もはや9月も中盤ですが、「よし半分は済んだ、あと半分」という謎の手ごたえを感じながら、書いていました。別に9月が終わったから、何があるわけでもないんですけどね。

 

ちょうどいい年齢層の本と、人と読む、一人で読む

自閉症の僕が跳びはねる理由』の著者で、その他にも多くの本を出版されている東田直樹さん。実はあまり小説を読まないと言われていました。読んでも、宮沢賢治。絵本はお好きらしく、絵本コーナーで子供に交じって読んでいて、純粋な目でまじまじと見られる、というのも、どこかの本の記述にあった記憶があります。

 

彼ほどの文章を書く人ですら、小説を読まない。小説って、一種、かなり、独特の芸術で、服用するにはかなりのスキルやタフさが要るのではないかと個人的に思っています。

 

そう、私も実は小説をほぼ読まない人間なのです…。自分の場合、下手すると塩水を飲んだような非常にしんどい活字中毒状態になってしまい、読むそばから喉が渇く感じになり、必死に常に活字に目をさらしておかないと、乾くという経験がありました。

 

現実感がゆらぐような、現実がすごく遠くなるような、小説やそれを書いた小説家の方が自分の分身か親友のように近すぎて感じ、それが時代も違う故人だったりして、恐ろし孤独にさいなまれ。…みたいになるので、実は努めて小説を読まないようにしています。

 

これ、性差別にとられるかも知れませんが、特に(おそらくストレートの)男性作家の作品を読んだ後に多いのです。推理小説や、SF、ハードボイルドなんかは大丈夫。いわゆる純文学が危険…。

 

なぜそれを好んで書くのかと思うのですが、そういう小説は入口から、奥に行けばいくほど、どんどん孤独に、一人に、世間の騒音がない世界に入って行く気が…。そして最後それを救うのは、あり得ない女性だったりし、同性である自分には「それはない」となり、結局「救いはない」と読め、物語は終了する。常にぐいぐい孤独の森に連れていかれ、そこで放置という目に合う。

 

森から抜け出したく、手あたり次第本を読むわけですが、これがどうもいつも最後人里まで自分をきちんと送り届けてはくれず、森の中に放置。よくこの精神状態で生きているな、と現役の作家(例えば大江健三郎さんとか…)に思います。たぶんだから、小説を書く人、読める人というのは、どこかで嘘…というのは言葉が過ぎますが、余裕というか、遊びがあるのではないか‥と疑っているのですが。

 

ある種もっとも危険だったのが、ドフトエフスキーでした。ドフトエフスキーに比べると、現実存在するどの人も影が薄くなり、もう故人であるドフトエフスキーしか、同じ種としての体温を感じなくなってしまうという。

 

聞けばドフトエフスキーは神経症的なものを持っていたとも言われているようで、それと自分の脆弱な部分が呼応しちゃうのかな、と思っています。だからこそ、名作と名高いのでしょうが…私には服用注意の怖い芸術です。

 

以前資格をとるために2年だけ在籍した大学の恩師にも、同じような症状の人がいました。彼女は児童文学までは非常に楽しんで読み、とても読書家だったそうです。

 

が、「もう児童文学じゃないな」と思う年齢になり、大人向けの純文学にシフトして、あら大変。なぜか日々ふさぎぎみになり、写真に写る顔は暗くなり、性格もなぜか暗くなっていったとのこと。以来、大人になってからも、ハッピーエンドの児童書を読むようにしている、と言っていました。そして現在は児童文学の作家兼研究者をされています。

 

彼女から教わり、私は何か小説的なものを読みたい時は、主に女性作家の児童文学を読むようにしています。イギリスは女性の児童文学の宝庫で、…日本語で読むと、いきなりカタカナの名前で「メアリーは」とか書かれ、シンクロしづらいですが、英語で頑張って読めば、結構するすると物語に入れる。そして世界観がわりとミニマムで、結構安心して読める。

 

子供にとっての、また自分にとっての物語の入り口を考えると、往年の女性作家の児童文学は、人形が主人公のものもあり、非常に入りやすいです。中には家の中に物語が限定されていたり(『借りぐらしのアリエッティ』もそんな感じですよね)、平素活字を読まない自分の世界とあまり段差なく読めます。

 

あまり出会った経験がないのですが、大学院時代の恩師に「君は同性愛者の作家の本とか向くじゃないかな」と紹介してもらった自伝。それもするするとしんどさが少なく、読めました。

 

いくつかの本に感じる塩分みたいな、あるいは最終的に毒素のようにたまる世界観の自分との段差のようなものが少なく、書いてある内容は結構悲惨だった記憶があるのですが、ストレス少なく読めたのを覚えています。ただ、結局は女性作家の児童文学のほうが、もっと楽だなと結論づけた記憶があります。

 

オチはないのですが、このように特に純文学服用に危険のある方って、他にもいらっしゃるんでしょうか。

 

寝かしつけの前、子供に本の読み聞かせをしています。絵本や、活字が大きな本。例えば『怪傑ゾロリ』シリーズや『おばけのアッチ』シリーズなど、自分で読んでいても楽しいです。

 

が、図書館で次の年齢層の本を手に取るとき、上記のことを思い出します。

 

今は子供と一緒に読んでいます。人と一緒に本を読むって楽しいなと思います。これが一人だと…。自分の中で言葉がたまってしまい、それがシェアされないために、自家中毒を起こす原因になる気もします。

 

読書の秋。ゆったり本を読む時間は、この年になると本当に何物にも代えがたいんだなあと感じさせられます。だけど私は服用に気をつけています。そういう方って他にもいらっしゃるんでしょうか…。

 

安心して読めるシリーズとしては、クマのパディントンのシリーズもあります。いつもハプニング続きですが、余りにも可哀そうなことは起こらない。その安心感は、時に退屈なのかも知れませんが…。

 

我が家の旦那は、非常にアップダウンの激しいストーリーが好きです。お互いに自分の好きな映画を借りて来ると、一緒に見るのはお互いにきつかったりします。物語は変化を表現するもの…と考えると、そもそも大きな変化にあまり強くない自分の特性も、原因なのかも知れません。

17年前のシャツ

昔わけあって両親が別居し、母が越してきて、同じマンションの違う部屋に住んでいたころがある。

 

その頃摂食障害も患っていて、後先考えず一日4箱くらいタバコを吸い、シケモクも吸い、唇は荒れ、声が出ない。さらには部屋でコンクリを固めて立体作品を掘っていて、粉塵まみれ。粉塵の部屋で簡易ベッドを出し、暮らしていた。

 

と、書くと何だか世も末感がすごいが、あまり世も末感もなく、毎日プレステで「俺の屍を越えてゆけ」をプレイしたり、合成で出来たキャラクターの絵を描いたりして、まだ、最終的に詰んでいない状態だった。その後、「はっ、私はいい歳して何を…」と気づく時がきて、そこから本格的に詰み、ようやく社会に出るわけですが……(黒歴史)。

 

その頃母が買ってくれた、チェックの半そでのシャツ。縫製がしっかりしていて、丁度よくゆったりとしてきつくなく、工芸品的な感じがし、気に入っていた。お店には沢山の色のチェック、しかし型は1つというシャツ屋さんで、また近いうちに一着買ってもらおう、と軽い気で1つの色を選んだ。

 

が、程なくしてお店は撤退してしまい、手元に残ったのは一色だけ。毎年いつか同じ店に出会って、買い足したいと思いつつ、大事に着た。丈夫なシャツなのだけど、最近は洗濯をネットでしていた。

 

ついにこの前、襟にほつれと、穴が無数に開いているのを見つけてしまった。生地がもう弱ってしまった。

 

当時、母は仕事帰りに電話をくれ、いつも待ち合わせてファミレスで1つのカボチャプリン(巨大)を食べた。私はその日一日中コンビニに通い続けて食べ続けていたり、その胃の重さで食べていなかったりだったが、カボチャプリンだけは、儀式のような、日課のようなで、邪念を入れずに口に運んだ。

 

母も、なぜかわき目もふらず、席に着くなり、一日のルーチンのようにカボチャプリンを注文した。やがて期間限定のそのメニューはファミレスからなくなってしまい、私たちの日課も、何となくなくなってしまった。

 

そのシャツは、摂食障害で小枝のような腕の時も、ゾウのような腕の時も、まあそれなりに着られた。生地がしっかりとしていた半袖で、暑い外も、ファミレスの冷房も、体の中心は守られた。

 

今、子どもを産み育て、若い頃とは違う丸い膨れ方をし始めた体に、顔に、あまり似合わなくなってきているのを感じていた。

 

先日の洗濯で、ほつれてしまった。

 

母は年老い、我が子からはおばあちゃんと呼ばれるようになった。とっくに当時の事は忘れている様子だ。私も、平素あまり思い出さない。

 

穴が開いてしまった。もう着られないかも知れない。

 

今物干しに干している。買ってもらったたときのように、きれいな光の中にいる。